案内係やーぼのブログ

コンサートホールで案内係をしている著者が、出演者・聴衆・スタッフの思いが響き合い乱反射する、劇場の魅力を語ります。

「音楽性」があるとかないとか。定義のあいまいな言葉に振り回される私達。

■「音楽性」って何? 

音楽性があるとかないとか、言うけれど、私は、「音楽性」のない人っていないと思う。同じ意味で、「芸術性」のない人もいないんじゃないかな。

今から数百年前、あるいは数千年前の人に音楽性や芸術性のない人なんていただろうか?

あるいは、幼少期から全く芸術性のない子はいるのだろうか?もしない子がいるなら、「子供はみんな芸術的だ」という言葉はどこから来たのか。


■「音楽性」の定義

「音楽性」という言葉は定義がとても難しい。なぜなら、その時々で、定義が揺れ動くからだ。

世界最高峰とされるコンクールで言われるときと、音楽学校で言われるときと地域のコミュニティーのなかで言われるときなど、シチュエーションによって意味合いが少しづつ変わってくる。

また、あるコミュニティーやある人からは音楽性のかけらもないと言われた人が、違うコミュニティーでは、音楽性にあふれていると評価されることはよくあるし、逆もまたしかり。

もはや揺れ動きすぎて、定義なんてあってないようなもの。

その時々で、定義が大きく変わる、共通の認識を持ちずらい言葉だ。

限定的に「この場合における音楽性とは○○で」といちいち定義しなければならない、厄介な言葉だと思う。

もちろん、なんとなくの共通認識はある。

でも、多くの人たちは、「なんとなく」で音楽性という言葉を使っていて、それがよく作用することばかりではなく、悪く作用することもあって、それが厄介だ。


■「音楽性」がない?

「音楽性が”ある”」と言うのは、問題ないと思う。だけど、人に向かって「音楽性が”ない”」と平気で言う人たちは、その人が考えるこの言葉の定義を根ほり葉ほり、詳しく聞きたい。

演奏技術の高さと音楽性は、必ずしもイコールではない。

「音楽性」がどうのと言っている人の多くは、「音楽的なセンス」「知識」「技術」などがごっちゃになっている気がする。

■豊かな音楽性

私は、本来、音楽性のない人なんていないと考えている。だけれども、合唱や音楽教育に関わっていると、「歌なんて大きな声で歌えばいいんでしょ」と言い、叫ぶように歌って満足している人たちがいる。

明らかにハーモニーを乱していたり、歌詞の意味はどこ行った?というような人もいて、そればかりか、声が小さい人をなじって天狗になっている人を周りの人々がほめる。そういう集団に出会うと「カオス」だなと思う。

もともとは、音楽性を豊かに形成する素養を誰もが持って生まれてきている。だけれども、それを育てる環境がなければ、「豊かな音楽性」を形成することが難しくなるのではないか。

矛盾するようだけれども、ほおっておけば「音楽性」なるものが身に付くわけではなく、それを育てる環境が必要だということ。

その環境を作るのは、簡単ではない。その先の命運を分ける幼少期の教育や過ごし方についてはおざなりにされることが多く、そこに携わっている人たちの待遇や地位も低い。

外国の歌やアニメソング、人気アイドルグループの音楽のように一般受けする音楽ばかりがもてはやされて(私もこれらの音楽は好きだ)、自国の民謡やわらべうたのように私たちの音感や文化を育てる音楽の重要性に気づいている人は少ない。

本当に音楽性を育む教育をバカにする人もいる。

■音楽性の有無は個人の問題なのか?

「仮に音楽性がない」人がいるとして、それがその人個人の問題であるように言う人が多いことに疑問を感じる。

誰かについて音楽性がないと言う時、その人が年下の人なら、その人の音楽性のなさに自分も加担しているという視点が必要だ。

なぜなら、「仮」にその人に音楽性なるものがないとして、その人は別の星からやってきたわけではなく、自分たちが築いてきた道(社会)を歩んだ結果、今のような状況になったからだ。

そうでないと、定義のあいまいな言葉は、いくらでも拡大解釈できて、正当化もしやすいので、言葉を振り回しやすいし、言葉に振り回されもする。

音楽性があるだのないだの言う前に、そのような環境を作ったうちの一人にあなたも含まれていること、また、何をもって音楽性と言っているのか、自分の胸に手を当てて考える時間が必要だと思う。



というお話でした。



 

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