老いを考える。私には「畳の上」がない。
——支援のあり方が変わる中で、取り残された問い。
先日受けた介護の研修で、一つの問いを投げかけられました。
「あなたはどこで最期を迎えたいですか? 病院ですか、それとも自宅ですか?」
私は、どちらとも答えることができませんでした。
かつての福祉と、変わりつつある支援
かつての福祉の世界では、介護が必要な人は施設に集められ、管理されるのが当たり前でした。
利用者主体ではなく、支援する側の都合で物事が決まる。そこには個人の自由も、人権も、選択する権利もほとんど残されていない……そんな時代が長く続いてきました。
だからこそ、今の支援は変わろうとしています。
「病院や施設で、自由を制限されたまま終わるのは嫌だ」
「住み慣れた場所で、自分の選択によって、尊厳を持って幕を閉じたい」
そうして再び光が当たったのが、「畳の上で死にたい」という願いでした。
突きつけられた、二択の空虚さ
私も、管理されるのは嫌です。
最後まで自由に生きたい、その思いは人一倍強いかもしれません。
けれど、「病院や施設」という選択肢を外したとき、残る答えは本当に「畳の上」なのでしょうか。
私には、いわゆる「畳の上」と呼べるような場所がありません。
「賃貸の一人暮らし」というリアル
私だけではないかもしれません。
持ち家を持たず、賃貸を渡り歩き、一人で生きる道を選んだ人たちにとって、「自宅で最期を迎える」とは何を意味するのでしょうか。
あの狭い賃貸アパートの一室が、私が最期に望む「畳の上」なのだろうか?
そもそも「畳の上」と呼べるほど、そこに時間の重みや、自分を受け入れてくれる記憶が蓄積されているのだろうか?
病院は嫌だ。かといって、帰るべき畳の上もない。
その狭間で立ち尽くしているのが、今の私のリアルな姿です。
自分の「畳の上」を模索する時代
時代は「管理」から「本人の意思」へと移り変わろうとしています。
それは素晴らしいことだけれど、その「意思」を置くための土台——つまり自分にとっての「畳の上」を、誰もが当たり前に持っているわけではないことに、世の中はまだ気づいていない気がします。
病院か、自宅か。
その二択に当てはまらない私たちは、自分なりの「畳の上」がどこにあるのかを、自分自身で模索し続けなければならない。
それは、特定の住所や建物ではないのかもしれません。
私にとっては、すべてを片付けたあとに残る、ブログに綴った「言葉」の中にこそ、本当の居場所があるような気がしています。
少なくとも、私にはいわゆる「畳の上」がない。
その欠落が何を意味しているのか。私はこれからも、この「無い」という場所から、自分なりの最期のあり方を探していくのだと思います。