「〇〇になれなかった人」という言い方が、私は嫌いだ。
その言葉には、人の人生を結果だけで切り取って、失敗の烙印を押すような冷たさがある。
でも、よく考えてみれば、私たちはみんな「何かしらの〇〇」であり、同時に「無数の〇〇になれなかった人」でもある。
それは、選ばなかった道があるというだけの話で、本来、善悪や優劣で語られるものではないはずだ。
何かになれなかったということは、何かになろうとして、そこに向かって歩いたということ。
挑戦もしなかった人には、そもそも「なれなかった」と言われる資格すらない。
それなのに世の中は、大きな夢を語った途端、できなかった時に「ほら見たことか」と言う準備を始める。
だから最近の若い人が、
「そこそこの会社で、そこそこの収入で、そこそこの仕事ができればいい」
と言うようになるのは、無理もないと思う。
夢を語れば叩かれ、語らなければ「夢がない」と言われる。
そんな社会で、誰が安心して挑戦できるだろうか?
いろいろあったけれど、今、私は何かしらの〇〇として生きている。
目標にしていた姿より、インパクトは小さいかもしれない。
でも、その仕事のおかげで、誰かが今日も安心して暮らしている。
それは、みっともないことだろうか。
烙印を押されるようなことなのだろうか。
私は、そうは思わない。
むしろ、他人を「〇〇になれなかった人」と簡単に呼べる人ほど、
自分自身が何も賭けず、何も失わず、
世間の「どうでもいい場所」に身を置いたまま、
安全なところから人を裁いているように見える。
本気で何かに取り組み、血の滲むような努力をしたことがある人は、
他人の人生をそんな言葉で切り捨てたりしないはずだ。
スターになれなかったとか、
メダルを取れなかったとか、
ずっと脇役のまま人生を終えたとか、
そういうことも、決して「負け」ではないし、恥ずかしいことでもない。
そもそも、人の人生は
主役か脇役か、成功か失敗か、
0か100かで語れるようなものではない。
誰かの人生のワンシーンを支えた人、
表に名前は出なくても、
場が崩れないように立ち続けていた人。
拍手を受ける人の背後で、
静かに責任を引き受けていた人。
そういう存在がいなければ、
スターも、メダルも、物語も、成立しない。
それでも私たちは、
「目立たなかった」「頂点に立てなかった」という理由だけで、
その人生を“足りなかったもの”として語ろうとする。
でも、本当にそうだろうか?
だから私は、こう呼びたい。
「〇〇になれなかった人」ではなく、
「〇〇を目指し、別の場所に辿り着いた人」と。
派手じゃなくてもいい。
拍手が少なくてもいい。
歩き続けた結果、今ここに立っている。
スポットライトを浴びなくても、
幕が落ちるまで舞台に立っていた人生がある。
それだけで、尊いと思わないか。