■どうせ理解できないでしょ
私は、音楽大学で声楽や合唱指導を学んで、それからずっとコンサート運営に携わっている。途中でハンガリーへの留学を挟んで、帰国した後もまだ、コンサートホールで働いている。
しかし、私が、いつもクラシック音楽から受け取っていたメッセージは、「どうせ理解できないでしょ」という排他的なものだった。
アーティストや音楽が一番素晴らしくて、聴衆はただそれをありがたがるだけの存在とされているように思う。
子供の情操教育のために生の音楽を!というコンセプトをもとに行われる、芸術鑑賞教室。学校行事の一環として連れていかれ、強制的に聴かされて、素晴らしかったという内容の判で押したような作文が量産される。こんな、浅くて薄い鑑賞体験の恩恵を受けているのは、結局は大人や企業なのだ。
このようなプログラムは大学にもあり、私は、必修授業の公演にも携わったことがあるが、すごく嫌だった。さぼる学生がいないか、ホール内を循環したり、出席の取り方も厳格で、その辺のセキュリティーより厳しい。
また、ある大学で学生に配られた出席表兼アンケートを拝見すると、感想を書くスペースはわずかで、ほかは、身だしなみを整えてきたか、演奏中に携帯を触らずに聴けたか、寝ずに聴けたか、遅刻しなかったか、など聴く側の態度に関わる項目ばかりで、演奏会というより、企業の説明会に参加したのかと思うような内容でげんなりした。
その学校は、必修の授業の演奏会にスーツで行くように指示が出されていたようですが、演奏会は、ドレスアップしていくところで、女性が黒いスーツで行く場所ではないと思う。
それで、身だしなみって、コンサートにふさわしい服装でない時点で、全員ペケだよ。そして、見本となるべき教職員もパッとしない服装で、説明会なんだか、演奏会なんだか分からなくなっていた。
■感性は降ってくるものではない
以前も文化庁の子供招待の記事でも触れましたが、感性って、ただ一流の演奏を聴かせて感想を書かせれば養われるものというものではないと思うのです。
そういうとすぐ「最近の若い子は」と言い出す人がいますが、そのような現象は、年齢に関わらずどの世代でも起こることです。中高年でもクラシックに造詣が深くない人は多くいますし、さらに言えば、コンサートホールで係員をしていて、曲や演奏のよさが分からず、また、マナーが分からず問題を起こすのは、ほとんどが中高年です。
そもそも、中年、高齢者と年齢が上がれば自然に身についたり、深く理解できるようになるなら、未成年のうちから生の音楽に触れる取り組みなど必要ありません。
そのうちできるようになるのに、わざわざこんな無意味なことに時間を割いているなら別のことをした方がずっと役に立ちます。
■クラシック音楽は、排他的な芸術
このようなプログラムに関わっていて思うのが、クラシック音楽は、その中でも排他的な芸術だなということ。何だか分からないけれど、すごいと言われている人の演奏をじっと聴かされて、とりあえず素晴らしいと褒める。だけど、向こうが歩み寄ってくれるわけでもない。
その演奏は、「どうせ、あなたたちには分からないでしょ」というメッセージを語るともなく語っている。むしろ、受け取る側が理解できない方がよい演奏だと言わんばかりだ。だから、私たちは、自然とその場に置き去りにされてしまう。
それを避けるために、トークが挟み込まれていたり、楽器の紹介や見た目に楽しい演出もある。耳なじみのある曲を挟み込みながらのプログラムもあるし、お客さんが手拍子などで参加できるものもある。
また、誰もが一度は耳にしたことがあるような有名な曲を挟み込むこともある。それは、クラシックの名曲の場合もあるし、ポップスなどのアレンジもある。
けれどもそれは、一時的なものだと感じている。その時は楽しいし、この日のために工夫してきたのだなと分かる。だけど、その場限り感は否めないと思う。
耳馴染みのある曲を聴くのは楽しい。私も好きだ。というかものすごく好き。この人の演奏するこの曲が聴けるなんて✨アレンジも最高!
でも、時として「クラシック音楽をあまり知らないあなたたちは、こういう曲を聴いていれば満足なんでしょ」という「子ども=甘いお菓子が好きでしょ」みたいな、なげやりというか決めつけのような印象を受けることがある。
それが悪いとは思わない。だけど、そのアーティストだからこそ届けられる何かがあるはずだ。
クラシック音楽のコンサートが私たちの生活の一部になじむときってどんな時なのだろう。どんな工夫がその壁をなくしてくれるのだろう?
この問題に取り組むためには、付け焼刃的なものではなく、もっと根本的な取り組みが必要だと思う。
その一つとして、障害のある方でも楽しめるような合理的配慮のある施設やボランティアの導入が挙げられる。また、0歳からのコンサートのように、お子さんを連れて親子で楽しく参加できるものもある。
このような、通常コンサートに行きたくてもハードルのある方々に配慮したコンサートは、これからさらに需要を増すと思うし、各プロダクションで実験的に様々な取り組みがされている。
では、そのような特別な配慮が必要というわけではない方々への働きかけはどうだろう?コンサートに足を運ぼうと思えば来ることはできる、だけど足が向かない人たちへは。
私は、オペラなどの事前解説は役に立つと思う。また、コンサートで初めてその曲と出会うのではなく、事前に少しずつその曲の見どころや聴きどころを鑑賞者に伝えていくような取り組みも役に立つのではないだろうか。
そして、私がもう一つ大切にしたいのは、コンサートが終わった後の感想をシェアする時間だ。学校での取り組みでもそうですが、ただ個人的に感想を書いて、その感想の良しあしで判断するのではなく、コンサートについて自分の感想をシェアする時間が大切だと思う。
感想をシェアする中で、自分とは違う視点に気づいたり、ほかの人の捉え方を学んだりすることは、次にコンサートを訪れた時の指標になるのではないか?
コンサートに行きました。つまらないので寝てました。聴きに言った意味を感じられなかったです。ではなく、ああ起きていればよかった、そんな面白いことがあったなんてと思わせることができるかは、私たちの手にかかっていると思う。
それができて、初めて芸術鑑賞教室や大学での必修授業の一つにした意味がわいてくると思います。
現在の多くの取り組みは、企業がマーケティング戦略として商業目的で「こどものために」あるいは「若い人たちのために」という口当たりのよいキーワードを使っているだけに思えてならない。
対話による美術鑑賞のように、誰がえらいとかではない、皆が対等な立場で、一つの芸術に向かい合い楽しむ場をつくることは、今までの、すごい人がいて、お客さんはその受け手でしかないというあり方を変えていくと思う。どうだろう?