案内係やーぼのブログ

コンサートホールで案内係をしている著者が、出演者・聴衆・スタッフの思いが響き合う、劇場の魅力を語ります。

「セクハラしたんですか!?」信頼と好奇心は紙一重 なかったことにすれば信頼していることになるのか?

その人を思って行動したつもりが、逆にその人や周りの人の心や名誉を傷つけることになることがある。

 

自分の心がざわついて分からないという余白に耐えられなくなった時、それはもう信頼ではなく好奇心であり、自分を満たしたいだけだと思う。

 

本当に相手を信頼するとはどういうことか考えさせられたエピソードがあったので、シェアします。

 

◼️信頼と好奇心の間

 

私の知り合いAさん(女性・60代)は、仕事仲間で尊敬しているBさん(男性・40代)が以前の職を退職した理由を知りたがっていました。

しかし、Bさんはその理由を明かそうとせず、Aさんはずっと気になっていたようです。


ある日、Aさんは偶然にも「Bさんはセクハラが原因で退職したらしい」という噂を耳にします。するとAさんは、どうしても真相が知りたくなり、Bさんに「あなたが退職した理由はセクハラだったのですか?」と直接聞いたそうです。

Bさんは、「本当は違うんだけど、周りがそういう噂をするのに嫌気が差して辞めた」と話したそうです。

その後、Aさんは「Bさんがセクハラなんてするわけないのに、最近の若い子たちはすぐにセクハラだと騒ぐから怖い」と怒り混じりに周囲に話していました。

◼️全てを肯定することが信頼なのか?


みなさんは、この出来事についてどう思いますか?


この出来事を通して私が感じたのは、AさんがBさんを信じたいという気持ちから、結果的に「若い世代がおかしい」「被害を訴えた人の自意識過剰や被害妄想だ」という結論に至ってしまったことに、違和感を覚えたということです。

そもそも部外者である私たちは、真実を知りません。

それに、加害者だとされる人に「あなたはセクハラしたんですか!?」と聞いたところで、多くの人は否定するでしょう。また、自分の行為がセクハラだという認識が著しく欠けていた可能性も考えられます。

確かに、世の中には「本人がそう感じたら全てがセクハラだ」と思っている人もいるかもしれません。しかし、実際にはそうではなく、社会的に不当とされない限り、被害として成立しません。

Aさんは、若い人が過剰な反応を示し、その結果Bさんが辞職に追い込まれたと考えましたが、私たちはもっと冷静に考える必要があると思いました。

特にクラシック音楽の世界では、師弟関係が絶対的であり、セクハラやモラハラが日常的に発生しています。多くの生徒は「自分が悪いから仕方がない」と受け入れ、助けを求めることができずに苦しむことが多いのです。そんな世界でセクハラの問題が表面化するのは、相当な事態だと私は思います。

さらに、その場にいなかった私たちが、実際に何が起きたのかを判断することはできません。もしセクハラが本当にあったなら、そこには傷ついた被害者がいるはずです。そこに思いが巡らない時点で思考停止に陥っていると感じました。


Bさんを信じたいというAさんの気持ちは理解できます。ですが、信じるということは「なかったこと」にすることではありません。事実や噂の真偽を受け入れた上で、どのようにその人と向き合うか、あるいは真相が分からないモヤモヤを受け入れる器の大きさも必要だと思います。

Bさんが本当にセクハラをしたかどうかはわかりません。しかし、Aさんが「Bさんはそんなことをするはずがない」と思うなら、セクハラについて直球で尋ねるのではなく、もう少し違う形で信頼を示すこともできたはずです。

それを直接尋ねた時点で、好奇心が勝ったのだなと感じました。

また皮肉なことに彼に聞いたことで、以前の職を辞めた理由がセクハラ問題であったことが明白になり、さらにそれを周囲に語ったことで、知らなかった人にまで彼の問題が広まってしまいました。

 

Bさんはセクハラを否定しているので、できたらあまり人に知られたくなかったと思うのです。

 

◼️音楽的な評価と人間性は比例するか?


私もBさんの噂を聞いたとき、ショックを受けました。

Bさんの音楽的才能と、噂されている問題の両方を受け入れることは簡単ではありません。ですが、私は、彼を問い詰めたり、噂の真偽を探ろうとはしません。もちろん、それで完全に疑念が打ち消せているかというと、うーん、どうでしょう?

ですが、もしかしたらそうなのかもしれないという疑念も受け入れた上で、どうその人と向き合うのか。それを自分自身に問うた結果、そうしています。

 

それからもうひとつ私たちが心に留め置く必要のあることがあります。それは、芸術性や偉大な成果と人間性の高さは必ずしも一致しないということです。

 

歴史に残る素晴らしいアーティストが、実は私生活で問題を抱えていたり、不適切な行動をしていたという事例は少なくありません。

近年ではそのような問題が取り上げられるようになりました。

そして、悲しいことに彼らの奏でる音楽や作曲した曲は、不適切な行動によって傷ついた人の上にあったとしても、私たちの心を魅了するのです。

 

だからこそ、私たちはそれらを天秤にかけて目が曇り、被害者の視点を忘れてしまいがちです。

 

◼️揺らぐ自分を守りたい

AさんがBさんに直接「セクハラをしたのですか?」と尋ねたのは、彼を信じられなかったからだと感じました。そして、被害者とされる人々の批判を通して、自分の不安や疑念を埋めようとしたのではないかと思います。結局、守りたかったのはBさんではなく、自分自身だったのかもしれません。

信じることは簡単ではありません。だからこそ、私たちは他者を信じると同時に、事実や感情を冷静に受け止める勇気が必要だと感じました。


みなさんはどう思いますか?